公理の決定と民主主義的方法について日本国憲法上の自然権と自由意思と物理的な存在及び情報とを交えて考察しました。(その1)
民主主義的方法の成立には、概念的な「1人1人の平等な重みを得る権利」及び、「十分な審議を得る権利」及び、物理的な「1人1人が平等な機会の投票手段」が必要である。
ここでの、
「1人1人の平等な重みを得る権利」
「十分な審議を得る権利」
「1人1人が平等な機会の投票手段」などを、
「等しく情報を得る権利」「等しく情報を出す権利」という2つの権利に分け、
「概念的」を「超物理的」と表現し、
さらに、(物理的且つ客観的な側面)と(超物理的且つ主観的な側面)というの2つの側面の合計4つの場合に分けて考察します。
物理的且つ客観的な側面での権利について、
「等しく情報を得る権利」とは「等しく社会での同じ量や内容や媒体での情報を得る権利」である。
「等しく情報を出す権利」とは「等しく社会での同じ時間帯や場所や方法で情報を出す権利」である。
そして、物理的且つ客観的な側面は社会的な(責任は社会が担保する)存在である。
ここでは、「存在」とは「物理的な実体」という意味であるとします。
物理的且つ客観的な社会という存在には、離散的や空間的という意味と等しい関係がある。
超物理的且つ主観的な側面での権利について、
「等しく情報を得る権利」とは「国民の個々人が(物理的に得た)情報を意識的に認識し、等しく個人の意思のみで評価した知識とする権利」である。
「等しく情報を出す権利」とは「国民の個々人が((物理的に得た)情報を意識的に認識し、等しく個人の意思のみで評価し知識を得た)情報を意識的に再認識し、等しく個人の意思のみで再評価し知識として(物理的に出す)権利」である。
そして、超物理的且つ主観的な側面は個人(の自由意思的)な(責任は個人の自然権が担保する)情報である。
超物理的且つ主観的な情報には、連続的や時間的という意味と等しい関係がある。
民主主義的方法とは、社会的な側面での存在と個人的な側面での情報がある。
一般的には民主主義的方法とは社会的な側面のことを意味すると言われている。
しかし、社会とは自然権をもつ個人の総和である。と 社会の概念を拡大すると、
個人的という超物理的な側面の方が重要である。
さらに、苫米地博士が提唱している様に、
「物理的な存在は、情報に包摂されている」
「情報は、物理的な存在を包摂している」
として情報を用いて考察します。
「社会や個人という物理的な存在」という情報は、「社会や個人」という情報に包摂されている。
「社会や個人」という情報は、「社会や個人という物理的な存在」という情報を包摂している。
「社会や個人」という情報は、
「社会や個人という物理的な存在」という情報と「社会や個人という超物理的な情報」という情報、との2つの異なる情報から構成されている。
さらに、この場合の
「社会や個人という超物理的な情報」を「自由意思」と定義します。
(個人という情報は、物理的な存在からの「自由」である、超物理的な「意思」を包摂している情報である。)
そして、「自由意思」という情報は、
「自然権である個人が、意識及び認識して得た情報を評価して知識という情報を得る。」
というサイクルを連続して遥かに無限回まで繰り返すことが可能である。
且つ、
情報として、有限な「物理的な存在」よりも遥かに大きい。
さらに、「社会や個人」という情報と、「自然権利」(「自然権」)という情報とは、同じ意味をもつ情報である。と定義します。
この場合の「個人や社会」を、
「「自然権」である個人や「自然権」である個人の集まりである社会」と定義します。
結論として、
「個人や(個人の集まりである)社会」という情報である、「自然権」という情報とは、
「自由意思」という情報と「個人や(個人の集まりである)社会という物理的な存在」という情報という2つの情報から構成されている。
「自然」という情報は「自由意思」と「物理的な存在」という情報から構成されている。
「個人」という情報である「自然(権利)」「自然権」という情報は、
「自由意思」と「物理的な存在」から構成されている、あらゆる全ての権利という情報を全て包摂しているとてつもなく大きな情報である。
「自然権」とは「自由意思」と「物理的な存在」から構成されている。
「自由意思」は「物理的な存在」より、情報として遥かに大きい。
「物理的な存在」は「自由意思」より、情報として遥かに小さい。
ここまでの結論とします。
次回に続きます。